論文の新しいカタチ (2)

 前回のプレプリントサーバの話とずれるようだが、論文誌の運営というテーマにも関心を持たずにおれない。投稿者、査読者、編集者(出版社)、読者の4者すべてがハッピーになるような論文誌の運営方法が、はたしてあるのかどうか。

 出発点として、最低限、査読に報酬を与えるべきだと考える。査読者のモチベーションの欠如がいまの論文誌の諸問題の大きな原因となっていると思う。ただでさえ昔に比べて研究者のなすべき仕事は激増しているのに、加えてボランティアで査読をさせようなんて、どう考えても無理がある。
 ではその査読報酬の財源をどうするか。まず思いつくのは、投稿を有料にする案。当然ながら投稿の数だけ査読作業が行なわれるわけだから、投稿料収入と査読報酬支出は一定の関係にあり、投稿が多かろうが少なかろうが左右されない。「投稿料 ≒ 査読手数料」と理解していただいてよい。なお査読料は改訂稿まで含めて1件分とし(改訂稿を別扱いにすると査読者は「要改訂」判断を連発するだろうから)、支払いは査読者が受理か拒絶のいずれかの判断を出した時点で後払いとする(そうしないとトンズラする査読者が出るから)。
 投稿料を取れば、ダメ元で気軽に投稿するような輩が減るので、編集者の作業量は軽減される。報酬仕事になることによって査読の質とスピードが向上するので、やがて論文誌の評価も高まる。このように査読者と編集者にとっては良い事ずくめ。だが投稿者にとっては、今まで投稿だけならタダでできていたのが有料になったら嬉しくはない。

 では、選挙の供託金みたいに、投稿時に投稿料を取るが、採択されたものについてだけは返還するというのはどうだろう。採択された論文だけが掲載料を支払うという現状のシステムと逆の考え方。こうするとまちがいなく投稿者は掲載を目指してより良い原稿を仕上げるようになろう。自信のない著者は投稿を控える(よって編集者の労力軽減になる)一方、自信のある著者は奮って投稿し、投稿原稿の質は全体的に向上するであろう。
 「投稿料を返還する」のが出血サービスみたいでえげつないとお感じなら「原稿料を支払う」と言い換えてもよい。一般の雑誌や新聞などでは、文章を寄稿した筆者には出版社から原稿料が出るのが普通。しかるにいまの論文誌では論文著者は記事を提供しているというのに出版社から金をもらえず、たいていは逆に掲載料なるものを払って載せてもらっているのが現状。これは奇妙ではないか? そこで掲載可となったときに払い戻される投稿料を「原稿料」という名目にすれば、著者もスッキリする。
 これは検討するに値する案と思うのだが。

 ただ、そうすることで論文誌の収支がどのように変化するかは予想しにくい。この「投稿料徴収&採択分返還」方式では、採択論文数に対して拒絶論文数が多いほど出版社の収入増になる。身の程を知らない投稿がある程度多くないと困るわけね。自信のない著者が投稿を控えることは収入減を招く。一方で、掲載されたら無料という条件に促されて投稿数が増える効果もある。


 投稿論文の質の分布と収入源の関係。左は従来のやり方、右は改革案。


 わかりやすいよう重ねて比較してみる。青文字は改正によるメリット、オレンジ文字はデメリット。
 掲載無料化による投稿増と、投稿有料化による投稿減が、どのくらいの効果をもつかは未知数だ。

 1つの判断材料として、Applied Physics Letters 誌の投稿/掲載論文数を見てみる。同誌に1年間に投稿される原稿数の公式情報は知らないが、大雑把に約 18000 件と見積もろう(この数字はいま手元にある査読原稿の通し番号と投稿日から判断した)。そのうち約 5000 件が誌面に載る。現行の制度では、著者から料金を徴収するのはこの誌面に載った 5000 件についてである。それに対して上記の改革案では、投稿数が同じなら、掲載されなかった 13000 件が料金徴収の対象となるのである。そこで投稿数がどの程度減るかが問題だが、仮に 18000 が 13000 くらいに減っても徴収対象は 8000 件だからまだ現行より多い。

 もちろん、投稿料・査読料をいくらに設定するかが、収支に密接に関わっている。個人的には査読料は(ノーベル賞の賞金みたいに)雑誌のフトコロ具合に応じて頻繁に変化させても構わないと思う。おそらく投稿数、査読料、論文誌の評価は互いに影響を及ぼす量であり、そのうちどこかの最適点に落ち着くのではないかと。
 例によって、自分が知らないだけで、既にこういうシステムを考えたり実行したりしている雑誌もあるのかもしれない。査読に報酬を出しているところは既にあると聞く(自分はまだ経験がない)。極端な話、定職に就いていなくて査読を沢山こなすことで生活するタイプの科学者がいてもいい。それは一種の科学ライター、縁の下の科学評論家といえる。あるジャンルに実践者と教育者と評論家はどれもが必要で、必要に応じて役割分担するのは自然なことだ。