満点の先にあるもの

 好天。
 修理のため、故障した電源を装置から取り外して、梱包して業者に返送。暇な学生がおらず1人でやった。汗だくになった。
 論文ストーリー作り。3歩進んで2歩下がった。

 よく2つの物事を比較する時に「○○を 100 とすると△△はいくつ」などという言い方をする。「を100とすると」で Google 検索すると山のように引っかかるよ。これはわかりやすい例え方ではあるけれども、なぜいつも片方を 100 に設定するのか、ふと疑問に思った。学校のテストが 100 点満点で評価されるからか、割合を示すときに百分率 (%) を使うからか。まあ 100 という数字が扱いやすく手頃だから、といったところか。
 でだんだん思考がそれて行くのだけど、そもそも 100 点満点のテストの点数をもってして生徒の理解度の指標とするのは適切といえるのか。昨日書いたように、物事を 100% 理解するということはありえない。中学理科の「電流と回路」のテストで満点を取った生徒がいたとして、そいつはオームの法則などの教科書知識は全部頭に入っているかもしれないが、そういった法則がなぜ成り立つのか、電気抵抗がなぜ発生するのかといった事象の裏側までは理解していないに違いない。中学校でそこまで教えていないんだから当然だ。
 そこで好奇心旺盛な生徒ならば、教科書の範囲を超えた高度な疑問にも自ら挑んで真実を突き止めようとするものだが、100 点満点のテストを受け続けている間に生徒は満点をとることがゴールのように思ってしまい、更なる思索に踏み出す活発さを失いかねない。どんなに好奇心を発揮して大発見をしても 100 点以上の評価をもらえないということは、彼らにとっては悲劇なのではないか。テスト以外に知的欲求を満たしてやる何かが、若いアクティブな脳には必要だ。教科書に書かれていない面白いことがいっぱいあるんだよ、と教えてあげなければ。‥‥なんてことを今更ながら考えたのは、折しもオープンキャンパスの高校生相手の”一日大学院”の準備をしているせいだな、たぶん。