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 今思えば『古畑任三郎』の犯人が観念した時のシーンはどれも美しかったな、と思う(例外もあるけど)。
 古畑と犯人の息を飲む言い合いの末、強硬な抗弁を続けていた犯人がついに降参する。そして静かに自分の素直な心情を古畑に吐露する。まるで旧友に語りかけるように。もしくは試合に敗れた選手が対戦相手と握手を交わすように。

「テーブルの上のお菓子を食べたのはあなたですね?」
「ちがうちがう、私じゃない、だいいちテーブルの赤福なんて見てもいない」
「私は“お菓子”と言ったのにどうして赤福だと御存知なんです?」
「‥‥」
「それは、あなたが食べたからです。そうですね?」
「‥その通りです‥‥(遠い目をして)古畑さん‥、私は一度でいいから本物の赤福を食べたくて云々」

 最終回のオープニングで古畑が、多くの事件を解決してきたが犯人はみな最後には潔く罪を認めた、それが私の誇りだ、という意味の独白をしていた。
 現実にはこんなふうにわかりやすい墓穴を犯人が掘ることは少ない。なのでどうしても科学の力を借りたり証人の証言を使わざるを得ない。

「祭りのカレーの鍋にヒ素を入れたのはあなたですね?」
「ちがうちがう、私じゃない、ヒ素なんて入れてない」
「ではこれを御覧下さい。Spring8の高輝度放射光による蛍光分析で、あなたの家にあった農薬と同じ成分が鍋のカレーに検出されたんです」
「ちがうちがう、私じゃない私じゃない」(‥‥以下永遠に続く)

 科学って何なの? 今じゃ科学的な分析による証拠を突き付けてもこの始末。科学が神通力を失っているということか。嘘つきが科学者の中に紛れ込んで、科学の世界を大混乱に陥れることもあるし。
 とにかく嘘つきを相手にするのは疲れる。

「あなたは強制収容所を作って多くの人に無惨な仕打ちをしていますね?」
「ちがうちがう、そんなものは作っていない」
「ではこれを御覧下さい。気象衛星からの航空写真に収容所が写っています。あなたの国から亡命して来た男性も収容所の実態を証言しているんです」
「ちがうちがう、作っていない作っていない」(‥‥以下永遠に続く)

 このところ毎日のように朝8時からの番組で、あの国の重苦しい実態を目にして、暗い気分で一日が始まる。
 かの国の指導者が真情を吐露する日は来るのだろうか。いつまで嘘つきを相手にしなければならないのだろうか。