常套句

 マエストロ小澤征爾は最近はタクトを持たず、素手で指揮をしている。
 なんでもある時、演奏会にタクトを持ってくるのを忘れて、しかたなく素手でやってみたらこれが思いのほかやりやすく、それからはタクトを使うのをやめたそうだ。

 さて今週の週刊朝日のグラビアで、素手で指揮する彼の写真に
小澤征爾が、生まれ育った中国でタクトを振った」
という一文が添えられていた。なんだか笑えた。

 「タクトを振る」というのが「演奏会で指揮をする」という意味の常套句なので、「この文は間違いだ!」と怒る必要はない。でも常套句をわざと文字どおりに捉えて、現実との違いを見つけるのは楽しい。

 ワープロで文章を書いている小説家が引退する時、やっぱり「断筆」とか「筆を折る」とかいうんだろうか。

 本のあとがきなどで昔はよく
「‥‥することを願いつつペンを置きます。」
なんて終わり方を見たもんだけど、PCで文章入力している場合はさしずめ
「‥‥することを願いつつCtrl+S → Ctrl+Qキーを押します。」
とでも書くのが正確かも。
 でも本当にやったら非パソコン人間の顰蹙を買うのであろう。

 ところで、クラシックギターを本格的に弾くには右手の爪を伸ばす必要がある。右手だけ爪が伸びている人を見たら、その人はギターを弾く人である可能性が高い。
 ということは、小説家が引退する場合の「筆を折る」に相当する言葉は、ギタリストの場合は「爪を切る」ではないだろうか、と勝手に考えたりする。

 例文:「彼は将来を期待された才能ある若いギタリストであったが、経済的な理由により止むを得ず爪を切った」

 うーん、わかってもらえないかな?