笑って話すか

 昨年9月11日の夜は、折しも名古屋駅に新しくできたツインタワービルの展望台に上って夜景を見て、降りて来たところでニュースを知った。貿易センタービルと名古屋の駅ビルでは規模が違うとはいえ、TV画面の中で燃えているビルとさっきまでいたビルがダブって見えて、余計に恐ろしかった。

 翌日、重い気持ちで学会会場に出かけ、大きな食堂で昼食をとっていると、近くに座っている学会参加者二人のはしゃいだ会話が聞こえてきた。
 「ゆうべのあれ、すごかったなあ」
 「ビルに飛行機の形の穴がくっきりあいてんの、グハハハ」
 「飛行場から飛び立ったばかりだから燃料満タンだったんだな。それがぶつかったんだからよく燃える燃える。ギャハハハ」

 こういう人々とは一生、一緒に仕事をするまいと思った。

 別に理系研究者に情緒欠陥人が多いという話をしたいのではない。だが知識のある人こそ分別を持つことが要求されると思う。

 仲間にも「あのニュースを見た時、空港にいたんだ」と笑って話す人もいる。話題にするのはいいのだが、私は相槌は打っても一緒に笑うことはしない。今後もしそういう場面があったらご了承いただきたい。

 『シンドラーのリスト』が公開されて多くの人の感動を呼んでいたさなか、米国の映画館でこの映画を見ていた2人の高校生が、ナチスによるユダヤ人虐殺の場面で大声を上げて笑い、映画館の係員につまみ出されたという話があった。
 「ふざけたガキだ」「人間の心がないのか」と高校生を非難する声が強い中で、スピルバーグは同情的で「人間、度を越した恐怖を感じると、笑って逃避しようとする心理が働くものだ」という意味のコメントをしていた。どうかな。やはり自分と関係ない世界の出来事として笑っていただけだと思うな。米国の高校生も、学会にいた研究者も。

 事件から1年。現在開催中の京都国際マンガ展では、テーマの一つに「テロ」が設けられており、各国から出品された一こま漫画の一部が新聞で紹介されていた。あのテロ事件をどうやって漫画にするのか興味があったが、やはり純粋な追悼の気持ちやテロリストの恐怖を前面に出した作品が主で、ヒネリや笑いの要素のある作品は少なかった。
 中で、日本の斎藤綾子氏の作品が印象的だった。
 高層ビルの一室のオフィスで仕事をしている男が、ふと窓から外を見ると、なんと窓枠以外、自分のいたはずのビルが根元から消滅していたという絵。

 いろいろな感想があると思うが、私はこの絵を見て慰められた。
 きっと飛行機が直撃したフロアで一瞬前まで仕事をしていて、「何だ?」と思う間もなく命を奪われた人だろう。あまりに突然で、自分が死んだことにも気付いていなかったのだ。
 事件の犠牲者のほとんどは火に焼かれたり、窓から飛び下りたり、瓦礫の下敷きになったりして、地獄の苦しみの末に死んで行った。しかし、せめてその中の何人かは苦しまずに一瞬にしてみまかったとすれば。
 「笑い」にまでは到達しないにしても、事件関係の言説の中で初めて前向きなものを感じて、少し救われた気がした。