韓国漂泊綴 (1) 民族 〜むかし別れた兄弟に〜

 飛行機の窓の外、雲の切れ間から半島の山河が見えると、胸がやや締め付けられるような感覚にとらわれた。「期待と不安が一つになって」なんて古い表現だが、初めてアメリカに行った時の高揚感よりも切実な感じ。
 何というか、むかし別れた兄弟に再会しに赴く人はこんな感じを抱くのだろうか。

 韓国にいつ頃から興味を持ち始めたかは覚えていない。大学時代には韓国に関する本を読み漁っていた。テレビ等で見る韓国の街並みは日本のそれとほとんど同じで、街を歩く人の顔も服装もほとんど同じだった。なのに読めない文字を使っている。隣の国なのに社会制度や習慣は驚くほど違う。いったい韓国とは何だろうか。実際にその土地に立って体感したい、と思った。
 隣同士なので交流の歴史は長い。両国の関係が険悪だった期間は、秀吉の時代と第二次大戦の頃だけで、友好的だった時代の長さに比べれば極めて短期間だ、と言われる。だが近ごろはまたいろいろあって、韓国内での日本の好感度は低迷しているという報道を事あるごとに目にする。今や韓国の地を踏む日本人旅行者は星の数だし、日本に来る韓国人も多いとはいえ、こんな歴史認識も浅い日本人男が浮かれた顔をしてソウルを闊歩してもいいものか、現地の人々はどう思うのか、という一抹の不安があったのが正直なところ。
 小松空港を飛び立ってわずか1時間半。飛行機は仁川(インチョン)国際空港の滑走路に滑り込む。ついに韓国に来た。むかし別れた兄弟は、私を受け入れてくれるだろうか。


 徳壽宮(トクスーグン)の入口。

 ソウル市中心部にある古い王宮、徳壽宮(トクスーグン)の前でサラリーマン風の男性に呼び止められた。私を同胞だと思ったらしく、ハングルで「シャッター押して下さい」(推測)などと話しかけてきた。こちらがハングルを話せないのを見て、彼は少し驚いたように聞いた。「Japanese?」
 2002年3月現在、ソウルの一般人にとって、日本人に遭遇するのはまだ日常的なことではないようだ。東京で欧米人に遭遇するのと同じくらいの頻度だろうか? しかも韓国人にとって日本人は「同じ顔をした外人」である。もし日本で日本人顔の人に話しかけて、相手が英語で返してきたら戸惑うよな、そりゃ。まして韓国人は知らない人に抵抗なく話しかけるから、はからずも「同じ顔した外人」に話しかけてしまうケースも多々あることだろう。
 それでも件のサラリーマンは終始友好的で、私が写真を撮ってあげると、笑顔で「サヨナラ!」と手を振って去って行った。

 セブンイレブンに入る。カウンターにはやたら元気なアルバイト女子高生4人組。やはり最初は同胞だと思われ、ハングルで「いらっしゃいませ、何をおさがしですか?」(推測)とかなんとか話しかけられた。私がしかたなく英語で用件を伝えると、彼女らも一瞬「あっ、日本人だったのか」というような困惑の表情を見せた。でも知っている日本語や英語を一生懸命駆使して、意思を通わせようとしてくれたのが嬉しかった。
 彼女らもまた別れ際に「サヨナラ〜」と言って手を振ってくれた。日本であんな人なつっこいコンビニ店員には会ったことがない。

 日本人か韓国人かを顔で判別するのは難しいと思うが、向こうの人もそうなのか。今回お会いした3人の方々に聞いてみた。

「韓国人の男は頬骨が張っているけど、日本人は顎が細い」(Hさん)
「韓国人は主に一重瞼で、日本人は目がパッチリしてますね」(Bさん)
「いや、顔に違いはありません。ルーツが一緒なのだから」(Cさん)

 そう、全体的な傾向としての韓国的な顔立ちというのはたしかに存在するが、1人の人を連れてきて韓国人か日本人かを当てるのは非常に難しいだろう。エラの張った日本人だって二重瞼の韓国人だっているんだから。南大門市場の店の人々はさすがに見分け方がうまくて、歩いていると10回中8回は「おにいさん、どうですか」と日本語で話しかけられた。あとの2回は「アンニョンハセヨ」。8割という的中率は驚くほど高いが、さすがに100%とはいかない。

 大昔から、半島と日本の間では人の行き来があった。いま日本の国籍を持ついわゆる”日本人”の中で、祖先に朝鮮半島由来の人を持つ人がかなりの割合を占めていることは想像に難くない。そしておそらくその大部分の人は、それを自覚していない。顔が同じなのは歴史的背景から当然のこと。
 だから韓国は偉いとか、だから皆はもっと自分のルーツを知るべきだなどとは言わない。ただ、「隣人」「かつて侵略した相手」「何かと『謝れ』ばかり言ってくる国」といった見方でなく、「兄弟」という見方で韓国を見てみたら何かが違って見えるのではないか、と思う。

 さて韓国歩きの大先輩、関川夏央氏が著した『ソウルの練習問題』[1]は自分のバイブルだ。
 まだ商談とキーセン観光以外で韓国を訪れる日本人がほとんどいなかった1980年代初頭、若き関川氏はむさ苦しい格好で一人ソウルに飛び込み、ハングルと格闘し、人々と向き合い、韓国を知ろうとしてもがき苦しむ。彼が歩いたソウルの街は、20年の時を経て現在はかなり雰囲気が変わっているはずだ。が、 今の時代でも、徒党を組まずに普段着で普通の街角を歩いている日本人は珍しいのか、と「Japanese?」と言われた時にふと思った。
 もうじきワールドカップ(W杯)が始まり、試合が行なわれる時期には韓国内の日本人の数は桁違いに増えるのだろう。でもこのぶんだとW杯期間中も、競技場とガイドブックに載っているスポット以外の「フツーの街角」では、意外に日本人密度は変わらないのかもしれない。


 漢江(ハンガン)の沿岸にそびえ立つ韓国一の高層ビル「63ビル」。

 旅を終えて振り返ってみると、今回接した韓国の人々は例外なく親切で、情に厚かった。好感度調査で低い数字が出ていても、自分の前に現れた日本人を彼らは兄弟のように迎え入れてくれた。
 では、日本人のほうは今後韓国人をどう迎え、どう接するのだろう。(02. 5. 2)


[1] 関川夏央『ソウルの練習問題』(1984 情報センター出版局)