Êtes-vous vraiment Charlie ? あんたら本当にシャルリーか?

 Charlie Hebdo は数年前に1回だけ買ったことがあったかな。「自分の好みではない」と感じてそれっきりだった。
 襲撃事件を受けてフランス人同僚の1人と少し話した。彼はこの新聞が大好きだという。「タブーが無いから」とのこと。まさにそれがこの新聞のウリであり、編集側は「表現の自由のためには誰かを不快にさせることも辞さない」とまで言い切る。そしてフランス全土の数百万の国民が、同紙の姿勢を支持するデモに加わった。そのことに僕は少々戸惑っている。

 基本的な表現の自由は文化的な社会に欠かせないものだ、と僕も思う。しかし実際にどこまで過激な表現ができるかは、しょせん社会の要請や読者の支持/不支持によって決まることだ。メディアの風刺を不快に感じた読者には、クレームをつける自由がある。そのクレームを受けて謝罪するかしないかもまたメディアの自由。結局は力関係がものを言う。
 かつて同紙(訂正:シャルリではなく『カナール・アンシェネ』という別の週刊誌だった。2015.3.19)に載った風刺画「 福島(原発事故)のおかげで相撲がオリンピック競技になりました」は我々にはクスリとも笑えない作品だった。「福島事故 → 奇形」をネタにした類似の風刺表現は CH 紙だけでなく France2 の TV 番組でもあったし、仏のみならず英国の放送でも普通に行なわれたようだ。日本政府が抗議をしたところで彼らはヘラヘラ受け流し、絶対に謝罪をしなかった。それは欧州の大多数の庶民がこういった風刺表現を見て喜んだ、つまり支持勢力が不支持勢力よりも強かったことを意味するのだろう、残念ながら。

 では、彼らが命を賭してまで守ろうとする自由な表現とはいったい何に対する風刺で、何を目的としたものなのか? という疑問が湧く。ふつう風刺といえば、弱い立場の庶民を抑圧する理不尽な権力や、不条理な社会問題といったものを、庶民の心に訴え、考えさせるために笑いで包んで届けるもの。ところが CH 紙の姿勢は、巨悪の風刺も時々やっているかもしれないが、もっと低次元の「排他主義」「嫉妬心」等への刺激が幅を利かせているように感じられる。

 フランスで生活していると、多くのフランス人には、部外者をあざ笑ったりのけ者にしたりすることで、身内が盛り上がり連帯を強くしようとする性質があるように感じる。仏語を話せない人間は格好な嘲笑の対象だ。そのかわりひとたび仏語を習得して会話に加われば仲間と見なされる。
 もし「巨大な宗教の上層部に巣食っている、利権を貪るエセ聖職者」を戯画化するなら、本来の風刺の役割として理解できる。しかし CH 紙の描くイスラム教は単に「自分たちと違うよそ者」というだけの理由で嘲笑されているのではないか。それが成立しているのはもちろん、心の底でイスラム教を異教と見なしている仏人が多いからだろう。福島の絵も、もし日本人が一般フランス人読者にとって身近な存在であったら、あのような心無い表現が生まれただろうか。

 なので Je suis Charlie (私がシャルリーだ)のカードを掲げてデモに加わるフランス人たちを見ると、「あなた方は今後も今までと同様、部外者をあざ笑うことで仲間内の連帯を強めていくつもりなのですか?」と聞きたくなるのだ。部外者を部外者とみなす限り和解は訪れない。CH 紙が頑迷さを貫くことは彼らの自由だが、フランス全土が CH 紙と同様の姿勢を取り続けるということであれば、やがて国として孤立しかねないのでは、と心配。