『ぼくがクリスチャンになるまで』

(原文)< How I Became a Christian>
First let me frankly confess that I was not entirely taken up by Christendom. Three-and-a-half years’ stay in it, with the best of hospitality it gave me, and the closest of friendships I formed in it, did not entirely naturalize me to it. I remained a stranger throughout, and I never had exerted myself to be otherwise. (第10章冒頭部)

(鈴木俊郎訳)『余は如何にして基督信徒となりし乎』
 まず余をして率直に告白せしめよ、余は全く基督教国に心を奪われたのではないことを。三年半のそこでの滞在は、それが余に与えた最善の厚遇と余がそこで結んだ最も親密な友情とをもってしても、余を全くそれに同化せしめなかった。余は終始一異邦人であった、そして余はけっしてそうでなくあろうと努力したことはなかった。

(私訳)『ぼくがクリスチャンになるまで』
 まず正直に告白させてもらうと、ぼくはキリスト教国に心を奪われたりは全然しなかったのだ。3年半の滞在の間、そこでは最高のもてなしも受けたし、最高に親密な友情を育みもしたけれど、それでもぼくはその地にまったく順応せずじまいだった。ぼくは終始よそ者のままだったし、よそ者でなくなろうと自ら努力したことは一度もなかった。

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(解説)内村鑑三氏が 1895 年に英文で著した古典的名書。鈴木氏の訳で長年知られている。『余は如何にして…』という堅苦しいタイトルに腰が引けて、今まで読むのを敬遠していた(同様の人、他にもいますよね?)。読んでみて、中身も邦題と同様に堅い文体でとっつきにくかったけれど、内容自体は非常に興味深く、若い頃に読まなかったことが悔やまれた。「これを現代語訳にしたらもっと広く読まれるのに」と思わずにいられない。ただ『余は如何にして…』は内村氏自身の与えた邦題だということで、気安く変更できないだろうし、本文も題名の文体に合わせるのが適切だという意見はごもっとも。けれど、せめて一節だけ試しに今風に訳してみよう。執筆時の著者が 32 歳という若さだったことを考えると、一人称を「ぼく」にしても違和感はなかろう。2カ所出てくる not entirely が部分否定か全否定か判断に迷うが、ここでは全否定とした。