愛国心とか

 一日中書類書き。並行して今後取り組むべきテーマについて考える。
 猫も杓子もナノテクといった感じの近年、自分は天の邪鬼だからナノテクだけはやるまいとなんとなく思っていたが、やろうと思えば主要な道具立ては揃っていることに改めて気付く。まあ本格的に取り組むとしても先の話だろうけど。

 「若者に‘愛国心’を持つことを強要する偉い人が多いが、民が国を愛するためには国のほうも民を愛する必要がある。しかし今の日本の首相や政治家や役所を見ると、そういう‘愛民心’を持っているとは思えない」といった意味のことを藤原新也氏が書いていた(06.1.23 朝日)。
 なるほど、愛国心の有無をめぐる議論について自分がなんとなく抱いていた胡散臭さの正体がわかってきた。卒業式で日の丸掲揚や君が代斉唱を拒否する教師や生徒がいる。マスコミで報道される彼らの意図はたいてい、日の丸や君が代が先の侵略戦争と結びついているというものだったが、果たしてそうなのか。戦争を振り返るまでもなく、今の日本が愛するに足らない国だということを肌で感じているから愛国心を持てないだけの話では。そんな彼らを躊躇(ためら)いなく処分する教育委員会など、強制的な愛国心教育を施そうとする人々には、なぜ強制しなければ皆が従わないかが理解できていない。
 もっとも藤原氏の言う‘国’とは政府や役人のことで、‘自分’に対して‘国’があるというスタンスらしい。実際には‘自分’も‘国’の一部である。国に良くなってもらうには自分が周囲に良くすることから始めなければならないのも事実。

 雪の兼六園とか農村の風景とか和食とか、人の奥ゆかしさや手先の器用さなど、‘日本’を構成する要素の中で好きなものは多い。一方で政治の闇、巨大企業のなりふり構わぬ利益追求、じめっとした人間関係、皆と同じであろうとする国民性などは嫌いだ。何にでも好きな点と嫌いな点があるのは当然。‘愛国心を持て’とは、そういった良し悪しを全部ひっくるめて盲目的にこの国を愛せよということか? そう考えると、なぜ愛着を持つことを強要される対象が‘国’であって‘町’‘県’‘世界’でないのかも不思議だ。