一生の縮図

 職場泊。デスクワーク少々して昼に退勤。久々に「真打」でラーメンを食って帰る。
 午後はオンバト見たりチャングム見たりしてだらだらと。気付いたら夜。やり残した仕事があったので再び職場へ。

 『最強伝説 黒沢』(福本伸行)にあったシーン。人の一生を一日に例えて、人生72年として24時間に当てはめると3年が1時間に相当し、18歳は午前6時、36歳は正午となる。40代半ばの主人公は「オレはもう午後3時だ、やり直しがきかない」と嘆く。
 「人生の黄昏」などというくらいで、人生を1日と比べるのは比較的妥当な例えだと思う。私もそれは考えたことがある。もっとも私は起きている時間を一生に準(なぞら)えて5年を1時間とし、午前7時が0歳で夜11時が80歳というように当てはめたのだった。そうするとお昼頃が20代前半で最も体力気力の充実した時期と重なり、60歳は午後7時、ちょっと残業して仕事を終える時間帯がちょうど定年退職の年齢に当る。

 さて最近自分の日々の過ごし方を省みると、あまり仕事も捗らないまま気付いたら午後2〜3時になっているということが多い。これはそのまま自分の人生の過ごし方に一致するのではないかと思えてきた。してみると深夜になってあわてて頭脳労働を開始するも力尽きて寝てしまうという過ごし方は、晩年にあわてて何かを残そうとして悪あがきするも寿命尽きて‥という末路を暗示しているのかも。そう考えると恐ろしく、日々の生活から改善しなければいけないと思えてくる。

 ところで最近見た雑誌のエッセイには「1年を1秒に例えると一生は1分ちょっと。人生なんて何もできずに終わってしまう」という意味のことが書かれていて驚いた。悲観的にもほどがあるというもの。筆者はそういう心境なのであろうが、1年=1秒とすべきもっともな理由は見当たらない。それなら逆に「1秒を1年に例えると一生は20億年だ、長い長い」という言説も成り立つだろう。

 一日や四季に人生を準える考え方が支持されるのは、日照や天候や気温の変化と人の成長や老化の過程との間に共通するところが大きいからだ。
 四季を列挙するとき「秋冬春夏」とは言わずに「春夏秋冬」と言うのも、人生と重ね合わせているためなのだろう、と思い当たる。