国と国民の乖離

 戦争のできる国になったことを歓迎する人はいても、彼らは自分の子が徴兵されるとしたらやはり嫌がるだろう。国としては戦ができるほうが望ましいが、個人レベルでは戦を嫌う。そこには「国」と「国民」は別物だという乖離がある。その種の乖離は多かれ少なかれどこの国にもあろうが、今の日本におけるそれは顕著だ。だいたい内閣支持率が4割程度しかなく、支持政党なし or わからないと答える人が半数を超える昨今、国のやることは自分の意志とは別物だと皆が思うのは自然の成り行き。

 野田政権が尖閣を国有化した際に中国で大暴動が起きたが、その時うちの職場でも同僚の中国人が僕をつかまえて「おい、どういうことだ」と詰問してきたことがあった。僕はよっぽど「いや、あれは石原という暴走老人が1人で引き起こした事態で、日本国民の総意じゃないよ」と答えようかと思ったけれど、そんな無責任な言い訳は国際社会では軽蔑されるだけだろう。なので一生懸命「中国には中国の歴史認識があるだろうが、日本にも日本の認識がある」「いくら不満だからって中国人のあの暴力は正しい態度ではないと思わないか?」等と防戦し、最後には向こうも「米国と対峙するためには、中国と日本は友好を保つべきなんだ」と主張のベクトルを変化させ、一応前向きにその場は終わった。
 あのときは何とか国と個人を同一視するよう努力して、日本代表のような気持ちで議論に臨んだのだが、あまりに政権のやり方が国民無視に過ぎるとそうはいかなくなる。今後もし外国人と同様な議論になった場合に、安倍政権のしていることを自分のことのように説明できる自信はない。「あの国は僕とは関係ないよ」と答えたくなる気持ちが年々強まっている。首相には外国人と日常的に接する日本人の立場も考えて言動してほしいものだ。